ツイッター @watchers001

はてぶ

このエントリーをはてなブックマークに追加
ラベル 気づき の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 気づき の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年8月10日土曜日

言われてもやらない、叱ってもやらない、怒っても時間がたてばまたやらない。


様々な親の期待や希望、そういったものが子供への声掛けになったりします。

○○になってほしい
○○やってほしい
○○しないから
○○になるように

どうして伝わらない
どんな言い方がいいのか
何が悪かったのか

そして僕がよくやってしまうのが、結果を想定して声をかけること


片づけてと声をかける
 ↓
子供が片づける

これは当たり前ですが、この声掛けにより片づけることを条件として伝えている
・片づけてと言ったので片付ける行動をする
前提として声をかけてます。



結果を意識して伝えてる
言い方を変えても結果的に「子供が片づける行動をする」という結果を意識して伝えています。

結果を意識しているので
片づけると思って伝える。
 ↓
実際に片付いていることはない
 ↓
何度も伝えたり、最終的に怒ったり

こういった声掛けに異議を唱えるつもりはありません。


ただ声をかけたからと言って、
その効果をすぐ期待してしまう悪い癖が
僕にはある







怒りに代わる
言ったからには○○してほしい。
○○っていったのにやってない。
何度も○○って言ってるよね!


これらは全て言ったことが伝わり、子供が理解し行動してくれると信じているから。
でもその信じてる気持ちが、行動に出ていないことで
絶望に代わり、
怒りに代わる。


何度も何度も怒られた子供は自己肯定が下がり、実行する意欲がさらに低下

意欲が下がったことで他の行動やもできず、
同じことを何度も言われ、
出来ずが続き再び怒られ・・・


悪循環ですね。




魔法の言葉を探す


子供たちにどういえば伝わるのだろうと考えてしまい、
魔法の言葉を探しますが、
ハリーポッターでもない限り魔法は難しい・・・


何を伝えればいいのか
なんて言えばいいのか⁉


伝わるときもあれば伝わらないときもある。
片づける時もあれば片づけないときもある。
つまり子供次第。

そうなんです。

子供次第なんです。



だから、大人であり親である僕がどう考えて言葉を伝えても、子供次第ってことが前提にあるんです。

もう一度言います。
子供次第。


伝える言葉をアレこれと探すよりも、受け取る子供に意識を向けないと意味がないってこと。


片づけたり、
廊下を走らないと理解したり、
やらないといけないことを理解したり。

こういったことを
なぜ受け止めれないのか、
どうして行動に移せないのか、
なぜ大人の声が届かないのか
ここに視線を合わせていくことが大事だと感じてきました。



そのために何が必要なのか⁉
日常生活として大前提にしないといけない部分なのかな?と最近よく考えます。


絵で見る斎藤公子のリズムあそび
原屋 文次
かもがわ出版 (2016-10-14)
売り上げランキング: 29,456




2019年5月21日火曜日

色眼鏡


人との付き合いの中で
他人を勝手に決めつけてしまうと、話をしていても「結局この人は…」みたいな態度で聞いてしまう。


これってものすごく無駄だ。
人を勝手に判断してしまうのは、礼儀礼節としても問題あるが、話した内容が事実であろうが、何であろうが、色眼鏡で見てしまった人には聞こえない


逆に色眼鏡が良い方向に動くときもある
尊敬している、崇拝している人の話なら何を言っても聞く。
宗教に似ている。



人を決めつけてしまうのは、
ある意味自分の中の弱さなのだろう。


この人のことは聞かないと決めつけて心を閉ざしたり、
この人のことだけ聞いていれば間違いがないとか。



責任を他人のゆだねることで自分を守ったり、
自己肯定を下げない様に聞き入れない様にしているのかもしれない。

自分でもこういったことは常々あり、自分から見たクレーマーな人からは何を言っても聞くつもりもなく、尊敬している人がやれば、黒も白にしてしまうような気持になる。


しかし、後から為になる話と思って聞くと、実はクレーマーな人が言っていたことであったり、そこは許せないなと思ったことが、実は尊敬している人の行動であったりする。



この色眼鏡は本当に気を付けたいと思った。




2019年5月17日金曜日

子どもの悪さ、親の謝罪。ここから生まれる問題点


子供たちの成長は本当にあっという間
ついこの前に押し目を変えていたと思ったら、
中学生に

驚くばかりだ。

それだけ自分も年を重ねていることなのだが、人生あっという間というのは本当ですね。


子どもが成長していく過程に様々なことがあります。




それは子供だけではなく、
周りにいる大人たちも同様

どちらかと言うとこの大人たちの方がプライドや見栄、損得などが絡み、話をややこしくしているところが大きい気もします。

小さい子供と言ってもやられる側の親と、やる側の親の気持ちの持ちようは様々。

悪いことをしたら叱るのは当然。

そして、その悪いことをした親の謝罪
ここが今日の課題だ。

悪いことをして親がその責任として謝罪するのは当たり前。

では、プールで遊び、AにBが水掛けた。
Aが泣いた。
それを見ていた大人がBを叱った。

ここまでは何も違和感がない。

大人がBの親に謝罪を求めた。

ここだ。

悪いことをして叱るのは当然だが、その悪いことをどこまでのレベルとして受け取るのか
子ども同士のじゃれあいとしては受け取れず、親にも謝罪を求めることなのか。


ただじゃれあいとしても、やりすぎはある
その際に大人が叱るのは当然であり、全てを無視しろとは言わない。
問題はその結果を大きくしてしまうこと。

悪いことをしたのだから罪の意識は当然
これは同意する。

しかし、子供の成長を考える大人として、Aにも、そしてBにも成長を求める。
罪の意識の植え付けとかは別として、
もし、怒り方として子ども自身を委縮させるような結果になるのなら、その大人の行動は改めて考えねばならない。


そこまで大きな事件にするつもりがないが
謝罪はしてほしい

しかし謝罪を求めるくらいの考えなのである。
つまり、起こった事を大きくしている。

子どもを委縮してでもコントロールしたいことになってしまう。


改めて考えてほしい
子どもたちを、お互いの子供たちの成長を願い、係わってきているのに、
その成長を阻害するような対応はいかがなものだろうか。

謝罪を求めるような罪なのだろうか

そんなに悪いことをしたのなら謝罪も必要だ。

しかし、、1歳の小さな子同士のじゃれあいから、片方が泣いたとしても
大人に謝罪を求め、子供には犯罪的な行為だからと戒めるのだろうか

子どもには叩いたら痛いんだよ!って感じではないだろうか?
痛いんだよっていう事柄を事件性として謝罪を求める行為は、何故なのだろうか


一番の問題点
謝罪を求められた親は当然子供を叱る。
再び同じことが起きたら、再び謝罪を求められるからだ。
それは、何を引き起こすだろうか⁉

子供の成長の過程で
1歳では難しく2歳から理解できる内容としたら、
謝罪を求められた親は次の行動をとる。

1歳の我が子に同じことをさせない様にコントロールする。

理解できるのが成長過程としてまだ先であっても、謝罪を求められるなら子供をコントロールしなければいけない。
つまり子供の自由にはさせられない。
例え理解していない子でも。


謝罪を求めるのなら・・・
そこまですることなのか!?を考えねばならない

これは親としても子供としても成長を阻害することになる。



お互いが大人としても子供としても学びの場であり、成長を委縮させるような展開に持って行ってしまうのは非常にもったいない。


でもこういったことはお互いの勘違いから生まれる。
実際にじっくりお互いが話、お互いの歩み寄りにより理解しあえる。
つまり、謝罪が悪いとか謝罪しないのが悪いではなく

お互いの価値観の違いを理解することが大事って感じがする

2019年5月9日木曜日

楽しむために、より楽しむために



子供たちが意欲的に!をモットーを考えていますが、
意欲を伸ばす一つの手段として前回の記事でお伝えした
どれだけ楽しめたか
どれだけ満足できたか
この辺が重要と感じております。


そこでどうやって楽しませるか
「より楽しむためには」今日のキーワード

笑わせるギャグをやる
くすぐる→これは間違い(気持ちがなくても身体的に強制的に笑わせるから)
イベントをやる
想像させる

これらは楽しいと思う結果的なことであり、今日のキーワードはこれらに対して楽しむには。
ここがポイントです

与えられた環境、偶然出会った環境をより楽しむために。

例えば小さな発見でもそれを楽しむことはできる。それがその子の好みによるかもしれない考えがちだが、実際は好みの問題ではないようです。

それは子供の感性の問題。

楽しめないのは感性がないのか⁉
そうではなく、子供たちはみんな感性をもっている。
この感性を日常的に研ぎ澄ましておく必要性を非常に感じました。


感性を研ぎ澄ますことで、触れたこと感じたことに反応しやすくなる。
反応しやすくなることで、小さなことも大きく感じ、感受性がさらに育っていくように感じます。

つまり、小さなことでも楽しめるように日々感性の研ぎ澄ましが大事なのかなと艦居たりしていたところです。


ゲームなどが悪いとは言いませんが、感性を研ぎ澄ます時期にここにハマってしまうと、相当なことがない限り感受性に反応を見ることができません。

日常的に感性を研ぎ澄ます生活を意識するだけで、出会うことからの受け取る恩恵は非常に大きく感じます。





子育てと感受性:乳幼児との豊かな関係をめざして
中田 基昭
創元社
売り上げランキング: 1,032,168



2019年5月8日水曜日

親同士の交流

People, Male, Woman, Outdoors, Wedding Party, Marriage
人が集まればいろいろな趣味嗜好がある
それを子供のためと言って人の趣味に合わせる必要もない。

だから、やりたくないこともやらなくていい。

どこまでが???

釣りに誘われ釣りは嫌いなのに無理に釣りに行くのは、
やりたくないなら無理に行く必要性は感じないが、
もし子供がやってみたいとか、好きだからやりたいとなるなら、子供が自分だけでいけないのなら協力することも有りかなと思う。

当然、必須ではない。

ただ考えてほしいのが、いろいろな環境に行くことで様々な思考が生まれる。
これは大人も子供も同じ。

そういう意味では親としては面倒だと思うが、そういった場に参加するのも一つの育児でもあるかもしれない。
もちろん参加しないのも有りだ。

何もしないと何もないが、何かすれば何かが起こる
これをワクワクをもって試してみたいと思う今日この頃




2019年5月7日火曜日

無認可から認可保育園になった。何か変わった?


次男が通っている保育園が認可になった。
認可になると何故か様々な噂が飛んでくる

実際には認可と認可外は市などからの認可があるかどうかだけで、それほど違いはない。
認可無認可違い


そこを噂が噂を呼び、認可になると今までの保育と変わるとか
誰でも入れるから変わってしまうなどの声を耳にする


実際のところどうなの!?
実は基本変わってない。


なぜなら保育園を選ぶ権利があるのは親である
親は数ある保育園の中から選択して、決める。
つまり自分で選ぶ

選ぶ権利があり、保育園の方針に従って預けて支払う義務が生じる。

選ぶということはそういうことであり、選んでから知らんぷりはできない。

保育園側は受け入れを選別する権利はないが、自分たちの保育を掲げる権利がある。
その代わり掲げた保育理念に沿って保育をする義務を生じる。

この親と保育園のお互いの権利と義務によって保育の育児は成り立っている。


親がたくさん集まれば十人十色となるが、基本的に親一人一人は自分たちで選んで入園している以上は、何かしらの共通点をもって入園している。




だから、無認可保育園時代から認可保育園になった今でも基本的なところは変わっていないはず。

斎藤公子の保育論[新版]
斎藤公子の保育論[新版]
posted with amazlet at 19.05.06
斎藤公子
築地書館
売り上げランキング: 137,383


2019年5月6日月曜日

仲間意識は無いとダメ?




まず最初に理解しておきたいのが、
集団意識や仲間意識は、
ないとダメってことではない。

そういう考えでの話ではなく、別な角度での話として聞いてほしい。


子供個人が本来持っているもの、持っていないものがあったとして、
持ってるから凄いとか持ってないからそれが欠点だ!という話でもない。

○○を感じやすく
○○を意識しやすいように
○○を養う、培うために

こういったことが基本背景として読んでほしい、聞いてほしい。


集団意識や仲間意識はもともと在るとか子供によって意識が薄いとかあるかもしれないが、少しでも仲間意識を感じやすいように、小さな仲間意識をもっと養うように、仲間意識の薄い子には仲間意識を感じてもらえるようにと

保育園側が保育をする





仲間意識などを課題
として保育しそれが実際に効果としてどういった形で現れるか、


園側の取り組みに対して仲間意識が思った以上に成長しない、効果が見えてこない。
となった場合


Meeting, Business, Brainstorming, Brainstorm
職務として
取り組んでいる「仲間意識の芽生えや成長」に対して反省と対策をする。

もっと○○してみようか
少し○○を取り入れてみようか
○○が負担なら無くしてみようか
こういったことを日々の課題を通して行っていく、

そして取り組んだ仲間意識の芽生えなどを日々の保育を通して確認していく




ただし
課題に取り組む前提にあるのが、
親の協力


各家庭が同じ課題として向き合い方向を同じにすることで、課題に対しての対策が生きてくる。


反省と対策をするうえで、家庭の協力がなければ、保育園側として取り組んでいることがすべて無駄になる。




ここが様々な考えがあるところ。
各家庭の方針があるから保育園から言われるなんて関係ない‼

しかし、
保育園側が共同保育を掲げており、
お互いに共通の課題に取り組むことを前提としているならば、各家庭の育児として取り組むべきところと考えたいかな。




アドラーを読む―共同体感覚の諸相
岸見 一郎
アルテ
売り上げランキング: 361,865



2019年4月16日火曜日

子供の充電を意識して接してみる

Technology, Digital, Online, Hand, Telecommunication


子供たちが日常で活動するうえで意欲を大事にしていきたい!
この意欲を大事にするというのがものすごく重要で深く難しく感じたりもしてる。

この意欲を大事にする、意欲的にするという子供たちのエネルギーは、僕たち親たちの接し方で変化していくことを実感したんです。

それは・・以前次男が水に潜りだした時

水に潜るのが苦手な次男に何とか潜る楽しさをと思って色々と試していたが、全く効果なかった。
From Behind, Boy, Fence, Outdoors, Kids, Man, People



無理やり楽しませるのも違うので、水に潜ってもらうことを考えるのやめて一緒にお風呂に入っているとき、次男が僕の行動で笑い出したことがあった。

それを何度も何度もやると爆笑してた。
めちゃめちゃ笑い出し
そして


突然、潜りだした。


の楽しいと思えていることがとても重要に感じ、楽しかったと思えることが次の活動エネルギーになるのではないかと最近思い始めた。

今までの僕は、何かをやってもらうときに、その課題に対して言い方を変えたり、やることの重要性を伝えたり、いろいろな伝え方をしてきた。

でも、それは間違えだったような気がする。


目の前のことに対応するエネルギーは、その時点で足りなければどんな伝え方をしても所詮は一時しのぎでしかない。


そしてその意欲のエネルギーを貯めるために日常的に否定をしない様にと思ったり(実際は全くできてない)

褒めてみたり(うまく褒めれてない)色々とやってみた。

この次男の潜りを改めて考えてみると、意欲の充電は

どれだけ楽しめたか
満足できたか

これなのかもしれない。
Children, River, Water, The Bath, Splash, Boys

中学生になる長男にいつも助言や注意ばかりをして、行動の改善を意識していたが、まったくもって方向違いの対応をしていたのかもしれない。

そこで、ここしばらくどれだけ満足を与えられるか
どれだけ爆笑させられるかに焦点を絞っている。

今後どうなるんだろうなぁ~と一人ひそかな楽しみを持っている僕です。



2019年3月29日金曜日

考えは色々あってよい

十人十色

こんな言葉は小学校の時に覚えた記憶があります。
その時は意味は分かっていましたがそれほど気にもしない言葉でしたが、年齢を重ねていくとこの言葉の意味の捉え方深くなっていった気がします。

実際に保育園、学校、職場など様々な人が絡み合い社会がなりなっていますが、
考えの違う人を異物として排除しようとすることは、賛成できることではありません。



方向は当然同じでないと進むことは困難になりますので、同じ方向を歩もうとするならば同じ向きに向かないといけないと考えています


保育園でも預かる側と預ける側がいます。

預かる側がテーマをもって保育する以上は、預ける側は預かる側の方向性を邪魔するわけにはいかないのです。

もし方向が違うのであれば自分の方向と同じところに預けるべきだからなんです。


つまり預ける側は預ける側に合わせることで初めて預けることが成り立ちます。




お友達の家に子供を預ける時に、うちの子はオヤツは〇〇じゃないとダメ、ご飯は〇〇以外は与えないで、一緒に遊ぶときは○○しないといけないからね。なんて言われたら僕だったら断ります。
そんなに言うなら自分でやってよ!と。

我々は互いに支えあい社会を形成している以上はお互いの関係を考慮して対応しなければいけません。
そこには様々は習慣や風習などがありますが、基本的には礼儀礼節を前提とした対応が必要です。

英会話学校に通って日本人だから英語は話すつもりはない!この時間は暇だから来てるんだ。金払ってるんだから好きにさせろ。なんて事と同じにはなりたくないですね。





2018年10月18日木曜日

子供の片づけ 片付けない長男が片付けるようになった

片付けても片づけても散らかってる子供部屋
長男が小6になりますが、ずっと散らかり部屋でした。
色々なことを試し色々とやってきた。

でも長続きがしなかった。

・心理的なものあるのかと自信を持たせた方がいいのか⁉
・気持ちを落ち着かせたほうがいいのか⁉
・注目してほしいから片付けないのか⁉

本当にいろいろと考えました。

なのにここ一か月 
部屋が綺麗です

ええええええええええええ
って驚いてます。
本当に驚いてる


片付けるようになった経緯を紹介します。

何か一つでも皆様の役に立てればと・・・




ある日洗濯機が壊れました。
かなりヤバイくらい揺れて音も大きい状態をずっと使ってたのですが、とうとう止まった。
そこでリサイクルショップで中古洗濯機を買うことに。



安いので十分と思っていたのですが、なぜか長男がドラム式洗濯機にこだわり出した。
(それでも中古ですけどね)

僕は高いのはいらないと言い続けていたのですが、
長男「ドラム式洗濯機を買うなら俺が洗濯する」と。
僕はどうせここだけのセリフだから買わないと一点張りだったのですが、妻が本当に約束できるのかと念を押し、今後ずっと一人暮らしで家を出るまでとの約束でもいいのかと、さらなる念押しをしても長男は
「俺が洗濯する」
そこで購入をすることに。

洗濯機が届いてから長男の洗濯が妻指導の下に始まり、乾いた自分の洗濯物は畳んですぐにタンスへという流れもしっかりと仕込まれておりました。

今までは自分の乾いた洗濯ものもずっとそのままだったのですが、これをきっかけに溜まることなく片付けるようになりました。

そして、洗濯物を片付け部屋もその流れで片付けるようになると部屋がずっときれいなままに。兄妹が散らかすと叱り、すぐ片付けるようにして部屋を維持するようになりました。

これがきっかけです。
ただの洗濯をするということだけ。

いまのところ一か月以上続いており、我が家では祭りで採った金魚の生き残りと同じように新記録更新中です。

仕事は人を成長させるとは本当なんだと実感したところです。
学校では教えてくれない大切なこと 19 楽しくお手伝い
松本 麻希
旺文社
売り上げランキング: 21,207


2018年10月10日水曜日

親だけが悪いのか

電車の中で騒ぐ子供は親が悪いのか





世の中の問題点になったり
小さな地域での問題点になったり
親として自分を責めてしまったり。

本当はここを重点的に考えていかないといけないのかもしれない。

やってもやっても子供の行動が周りからダメ出しをされてくる。
そうなると親としてはもう自分を責めても救われず
子供を責めても結果は変わらず
自己肯定感だけが下がる

0に近づいた自己肯定感を精一杯守るために、間違っているのは自分ではなく周りだという結論になってしまう。

これはとても無視できない流れだ。

例えば我儘であったり集団生活や社会の中でうまく対応できなかったりすると、まず気になるのが周りの視線や言われてしまうこと
親は何やっているんだ
〇〇ができてない
みんなできるけど△だけできてない
いつまで○○しているのか、まだやめれないか
などなど

こういったことを言われると、対応しようとしたり気にしなかったりといろいろですが、集団生活という一つの社会の中で生活する以上は無視することもできない。
ここが実は重要点になると思います。





家族だけで島で暮らしているのであれば、何とでもなりますが、他人と暮らす生活の中ではそれぞれの個性を尊重しつつ共有しなければいけないこともある。
トイレを使わずに自由勝手に撒き散らかすわけにもいかないんです。

そこで親としてはそれぞれ対応はしていますが、それでも子供の行動と結果が繋がらないことが当然のようにある。


行動は各個人の価値観から生まれる

何を重要視するか、何を優先するか、何を避けるか。
価値観の形成は日常生活から生まれてくるために、当然のように行われる自分の毎日の生活に何が原因なのかということは気づくわけがない。
(間違いを犯していることを気づきながら生活をしている人は滅多にいない)
酒、たばこというハッキリと体に悪いというのは、わかりやすいですが朝、子供たちが起きて三食食べて夜寝るまでの中で生活改善を考えても、そう簡単には見つからないんです。

自分たちは当たり前の毎日を送り、間違ったと思うことがあれば当然のように修正して生きているから、当然よう生きている生活の中で原因を探そうとするのはウォーリーを探すよりも難しい。


これだけ難しいことを前提に考えれば、○○できてない、○○がまだダメのようだ。と言われて理解して対応しても実際の原因を突き止めて改善できるのは、宝くじ並みの確立かもしれないのです。



それなら放置しておけばいいのか⁉
放置することはしません。





どう対応するのか


社会の中で生活することが前提になっている人であれば社会に送り込むのは大人の責任なんです。

そうなんです。
大人の責任なんです。

ここが重要。

大人の責任

つまり、親の責任だけではない。大人の責任なんです。
これは言葉遊びではなく、真意をついているところです。

子供たちを社会に送り出すのは、いち家庭の話ではなく社会で迎え入れるのです。
その社会を作っているのは大人である以上は、関わる子供たちすべてが我々の責任の範囲です。
子育て自体がいち家族でやるのは無理、無理というよりも矛盾していることになります。社会はいち家族で作っているわけではなく、たくさんの人で形成されています。

だから、
〇〇ができてない
みんなできるけど△だけできてない
いつまで○○しているのか、まだやめれないか?

これらは親だけのせいではないんです。

気づいたんなら手伝ってよ!
と逆切れしてしまうところかもしれません。


周りも一緒になって
しなければいけないところなんです。


近所のおじさんが子供の悪さを叱っていた時代がありました、
今も少なからずありますが、そういったことが社会で子供を迎え入れる準備になると思えます。

親の責任半分、周りの大人の責任半分みたいな感じですね。
「子育てはみんなでする」ってことなんですね。



小児科医のぼくが伝えたい 最高の子育て
高橋孝雄
マガジンハウス
売り上げランキング: 392



2018年9月26日水曜日

怖がり次男

我が家には5歳の次男がいます
この次男

超怖がり

打ち上げ花火を見に行けば、音で怖がり
公園の綱渡り的なものの前では怖いぃぃ
ウサギを飼っている家に遊びにいけば怖いよぉ

うさぎにもビビるのかと正直驚いた
昔から新しいことや保育園に見学者が来た時などは常にビビってたというのは聞いて聞いていました。
最近すっかりとこのことを忘れており、近々運動会になるので、運動会のスターターのピストルの音などにも昔から怖がっていたので心配になってきました。




この怖がることの目的は何だろうと思いずっと考えていました。
怖がることで何をしようとしているのか
何を避けることができるのか
その目の前のことを避けるのは当然ですが、その裏にある怖がる共通項を避けようとしているところがあります。

花火=大きな音
鉄砲=大きな音
綱渡り=落ちる
ウサギ=かじられる

こういった恐怖を避けようとしているのですが、共通項として身の危険がある。



身の危険を感じると怖いという表現によって、危険を回避しようとしているのだろうか??と仮定

身の危険がないことを理解し実感してもらうことでこの恐怖を乗り越えられたらと感じています。

運動会まで日がないのですが、全力で取り組んでみようかな


アルフレッド・アドラー 一瞬で自分が変わる100の言葉
小倉 広
ダイヤモンド社
売り上げランキング: 15,793


2018年8月31日金曜日

海外ドラマから見るイジメ問題

いじめの問題

何時の時代も存在しなくならない問題。

そんなイジメの話を海外ドラマをみて気が付いたことがある。

子供とのかかわりの中で、問題が起きると大概はその問題に対しての行動が多い。
子供が意地悪されたら、親が出ていくことを前提に話がすすみ、
後はママに任せなさい的なことがある。

そして意地悪に対しては
意地悪をさせないように加害者の親や先生などに話す。

当然の行為なのだが、いじわるに対しての解決にはなっていないし、
被害者に対してもいじわるに対しての解決には実はないってない。

意地悪されないなら解決だ!
なんて言われるが違う。

親が子供の前に出て解決したことで、
子供には
「あなたは無力よ
とメッセージを送ってるだけだ。

解決を考えるならそうじゃない。
子供を前面に出たうえで支援する方向にしないといけない。

先生や相手の親に対して親が話すのではなく、
まずは子供が行動を起こし、
そこに進展がなければ、初めて親が出てくるところだ。
親はあくまでもサポートだ

子供の行動として自分で解決に向かう行動を促すべきと思う。

それは小さな子供でも同じだ。

小さいからこそやるべきである。






ドラマでは
黒人の子供が同級生にうんちと言われたことを母親に言う。
母親はそんなことはないと伝え、言った子供の母親に話し合いに行く

相手の母親はそんなことは言ってないと思うと話をはぐらかし話し合いを終える。

うんちといわれて当然そんなことはない!子供には伝えるのだが、親が子供が言われたことを否定しても結局のところ同級生は言い続け、それはほかの子にも波及する。
一人の親が否定しても10人の同級生が言えば、否定している効果が薄くなってくる。

言った子を罰する

バレないように言うだけであり解決には至らない。


言われたことを否定しても意味は薄いかも。

それなら言われたことに焦点をあわせるより、子供本人に焦点を合わせて何を言われようがあなたは素敵なんだということを伝えていくべきなのではないだろうか

言われたことを否定しても、思っている奴は言ってくるし、何度否定しても言われる数のほうが多くなり結局焼け石に水になる。

それなら変わることのない子供本人のすばらしさを本人にじっくりと理解してもらい自信をもって生きてもらうことのほうが解決の道につながるのではないだろうか

「あなたは世界に一つの唯一の存在であり、我々の宝物。何をどう言われようがそこは変わることのないことなんだよ」と伝えたい。

つまり「うんち」と言われても気にもならないくらい自信が持てたら素晴らしいなと思う。

人種差別の問題は簡単じゃないんだろうけどね


自尊心を育てるワークブック
グレン・R. シラルディ
金剛出版
売り上げランキング: 87,477


2018年8月22日水曜日

自由とルール


子育てっ考えることばかりですね

子供を育てるときに否定をせずってことは色々な育児関連の本に載ってます。

その否定を意識するとダメと言えない

注意できないという迷路に僕は迷ったことがあった。

ダメがダメではないってことにたどり着くまでにとても時間がかかりました。




ダメと言われたからと言ってその子を否定しているわけではないんです。
そして、ダメと言われた子も否定されたとは思わないんです。


そんなことはない!!って言われるかもしれませんが、ぼくは実感してます。
ダメがダメではないってことを。




否定はもちろん良い印象を与えないと思いますが、

否定すべきところはあくまでも行為

そして、否定しないところは人格です。

この行為と人格を一緒にして叱ってしまうと自己肯定感が下がっていきます。

例えば、片付けが出来なかった子に
「何でいつもおまえは片付けができないんだ!」
このお前という一個人を特定する言い方は人格に訴えている部分かもしれません。



それなら「片付けてないから、片付けて」という行為だけの指摘にすることのほうが良いように思えます。

ここでそんな言い方しても子供は片付けない!と言われます。



でも僕は子育ては結果を求めるものではなく、過程を楽しむことが基本と考えているので、今すぐ、少し先でも結果がでなくても正しいことを言い続けることの大事さが伝わればと思います。




子供が習っている野球体験会でルールの知らない子供たちが体験しにやってきます。
その時に、打ってヒットになることは難しいので、好きにしていいよ、自由に動いていいよ、好きなようにやっていいからね。などと声を掛けますが、

この曖昧な自由さが逆に子供たちは
身動きできなくなるんです
何をしていいのかわからない所に何をしてもいいよと言われても何もできない。



ところが、バットに当たったら一塁に走るんだよ、
バットは投げずにおいて走ってねという簡単なルールを伝えると
子供たちは目一杯バットを振って楽しみだすのです。



ここでさらに腰を回してとか、
膝を曲げてごらんとか
色々と細かくアドバイスすると逆にまた動けなくなります。


この自由とルールの範囲をどう子供が受け取るかってところがポイントのようです。
ルールが全くないと動けない、ルールが多すぎると動けない。



子供たちが自由に動ける範囲
自分の判断で意識できることが重要であるようです。



学習意欲の心理学―自ら学ぶ子どもを育てる
桜井 茂男
誠信書房
売り上げランキング: 99,565




2018年7月6日金曜日

意欲と自信

意欲と自信

ずっと思っていたことがある

意欲をつけさせよう意欲を沸かせよう自信をつけさせよう自信を感じさせよう


自信も意欲も同じもんだと思ってた。

自信がつけば意欲がわき
意欲がわいているのは自信があることだ!と。

でもある子供たちの行動を見て必ずイコールではないってことに気づいた。




自信は成功体験の積み重ね
から出来上がる
この成功は大きいことでも小さいことでもいい
取り合えず上手くできな成功したという体験からできるもの


一方意欲とは


これやりたい。これやってみたい。とかそういった感じの人を動かすエネルギー的な感じがする。
そしてこの意欲がでてくるのは、


楽しさが重要だと感じた。






例えば
公園で小学生が遊んでいる
3人は野球の得意な子供たち、
他の3人はサッカーの得意な子供たち、
何をして遊ぶかの話の中で野球にしようとか、サッカーにしようとか
最初は野球で次にサッカーにしようとか色々と話し合ってる。

そんなところに何も習っていない子供が来て、新しいゲーム買ったからみんなでやらないか?と誘いに来た。

みんな「ゲームやる!家に行ってゲームにしよう!」となった。

この流れが自信と意欲の違いを分かりやすくしたようなもんだと思う。

意欲を大事にと思い自信をつけさせようと思うとちょっと方向的にズレてしまうところが僕にはあったと感じた。

意欲は面白さが重要なのだろう。



2018年6月29日金曜日

子供の行動からわかるもの

我が家には三人の子供がいます
この子供たちはそれぞれの動きをしており様々です。
行動から性格とかにじみ出ているといわれるところですが、どうやら子供の行動からわかるものはそれだけではないようです。

虫取りが好き
工作が好き
歌が好き
リズムが好き

走るのが得意
木登りが得意
相撲が得意

様々なことが一人一人の子供にあります。
このそれぞれの場面から子供の行動を見ると好きのものと嫌いなもの
苦手なこと得意なことで行動が変わるのは当たり前のように思えますが、
どうやら子供の行動は

自分をどう評価しているか
(自己評価)
これがわかるようです。

自分自身の得意なものであれば、自分を高く評価し意欲的な行動へと繋がることになりますが、自分には無理と思っているものに関しては尻込みしてしまう行動になるようです。

ここで注意したいこと!!!!




上記に書いた通り「自分には無理と思っているもの・・・
この無理と思っている

自分の器を自分で決めてしまっている
子供自身は人生経験も浅く世の中に対する認識も甘いことから、何事に対しても根拠のない自信を持っています。やったことないことを「俺にはできる!私はできるもーーん!」みたいな感じです。
よく車の運転はおれ上手いぞ!とかそんな会話をたまに聞きますが、それこそ根拠なき自信の現れなんだなぁとおもったりもします。

この根拠なき自信が子供たちの意欲になり活動的になってくるようです。
それが自分には無理と思い尻込みしてしまうのは、日常的な生活から自分には無理ということを感じていることが多々あるということに繋がるようです。





2018年6月21日木曜日

動作のスピード

子供でも中々動き出さないときがある
むしろ子供だから動かないときが多いのかも
帰るといっても準備もしない
片付けようといっても何もしない

何もしない間は子供自身が主導権を握っている場合が多く、そのため状況を変えないためにあえて何もしない(支度しない、片付けない)という状況になるようだ。

出発するよ!と言っても何も準備する様子がない子供には、親が先に行くくらいの行動を見せるのがいいのかもしれない。主導権が子供ではなくその場合は親にあることを理解してもらうために。

片付けないならサクサクとゴミ袋に入れていくのがいいのかもしれない。
子供自身が片付けないものは捨てられるものと認識してくるから。

子供の行動を変えようとするなら、認識に仕方を意識するのがよい
何もしないことで親は待っていてくれるし、この状況を維持できる、さらには自分が主導権を握っているという状況になれる。
しかし親が待ってくれない、状況を維持できない、主導権は自分に無かったと理解すれば行動も変わってくる。と感じることが多々ある



2018年6月4日月曜日

約束したけど・・・

長男が時間外のオヤツを食べてしまい時があります。
僕は気持ちの切り替えで楽しいこと(おやつを食べる)を選択していると考え、気持ちの切り替えをできるだけ違う方向に向けたいと考えキャッチボールの誘いに乗ったり色々と対応をしていました。

そして先日学校に行く前にオヤツは食べないでねと約束をしたのですが、長女が学校行く前に食べてたよと報告し、再度息子に約束の時間に食べる意味を伝えもう一度約束をしました。
僕はその後、保育園に次男を迎えに行って帰ってくると今度は夕食前にこっそりとパンを食べていたのです。

これには衝撃でした。
本当にショックだった。

優しく諭す意味で伝えたつもりだったのですが、息子の行動は全く別だった。

これにはいろいろと深く考えさせられた。

優しくてもダメなのか
怒るくらいじゃないとダメなのか
ゲンコツが必要なのか

本当に色々と考えました。

それだけショックだったから・・・

約束の伝え方や約束を破ったことの対応を考えるよりも、僕自身が長男をまだまだ幼く扱っていたのではないかと感じています。
6年生となれば中学生になる手前、学校も自分で行き習い事も自分で通える年齢です。電車にも一人で乗ることができます。
そんな長男に対して僕はまだまだ幼稚な対応をしていたのではないかと感じました。

その幼い子供への対応ゆえに約束に対しての重みを意識しなかったり、約束ということ自体を認識していなかったようにも思えます。


これについては今後の対応で変わるかどうか時間がかかりますが、今後の約束事とは別に一人の人間として、年齢にあった対応を心がけようと誓いました。





2018年6月1日金曜日

妻と話した昔ばなし

先日、妻と話をしていた時に長男の保育園時代の話になりました。

僕は育児には積極的に参加し保育園の懇談なども前向きに参加していました。

ところが、妻との話の中で、息子の保育園時代の様子が全く自分の目には映ってなかったことがわかりました。
保育園時代では仲間との係わりが弱く打たれ弱い長男でした。それを年長時代に色々と保育士から言われ、僕自身では取り組んでいたつもりでしたが、僕の目に映っている息子の姿がは保育士から伝わっている様子とは別に写っていたことがハッキリと分かりました。

本当に気付いてなった。

様々なことを言われそれを踏まえて対応していたつもりだったのですが、僕の目に映っている息子の姿と保育士が伝える息子の姿にズレがあり、僕自身このズレに気づいていなかったことが最大の要因の思えます。

僕も深く保育園から言われたことを掘り下げて考えたのは実際に息子が小学校に入ってからでして、保育園時代と小学校での子供の様子の違いを感じ、何故だろうと思ったことがきっかけでした。

その時でさえも保育士からの息子の様子と自分の目線で見ている息子の様子のズレに全く気がついていませんでした。
それが先日に妻と長男の保育園時代の話をしているときに改めて知ったようなことばかり。
全く僕は息子を見ていなかったんだと感じています。本当に反省しました。



2018年5月25日金曜日

自由と身勝手の境目

自由と身勝手

自由な子供ということが大々的に取り上げられる世の中でありながらも
学級崩壊が懸念されるこの時代。
なんとも不思議なところですね。

自由にさせれば学級が崩壊し、規則を与えれば自由を壮ン町しないといけないといわれる
一体全体何が自由で何がダメなのか

ある時ネットの記事で見つけたものがある。

国語の授業で『雨』の字の練習の時
ある子は算数のドリルを取り出し計算問題をやりだす。
ある子は絵を書き出す。
ある子は雨を書き続ける
ある子は『雨』だけではなく、そこに『雨が降った』
『雨はきらい』『雨はぬれる』など文章を作って感じの練習を始めた。

ここに自由と身勝手の違いを見た気がする。

子どもは紫の露草
子どもは紫の露草
posted with amazlet at 18.05.24
広木 克行
北水
売り上げランキング: 341,435

算数のドリルをやりだしたり、絵を描き出すのは自由ではない

これは完全なる身勝手な行動だ。



この身勝手が必ずしも悪というつもりはない。
ただ自由という括りにはしたくない。

かたや『雨』を練習しつつも文章として書く柔軟さこそが自由な発想と思った。
雨を書き続けるのが間違いではない、雨の漢字を練習を前提として遊びを取り入れる発想がすごく自由と感じる。

つまり自由と身勝手の境目は

秩序ということになりそうだ。


秩序を保ち自由な行動ができることこそが本当の自由と感じる。

やらないといけない課題を目の前にしつつ、そこに向かい合えないのは別の問題があると感じる。
それがダメとかではなく、子供からの一つのサインとして受け取りたい。





人気記事

マイチャンネル

にほんブログ村 子育てブログへ
にほんブログ村