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2016年7月25日月曜日

子供の自主練。自主練も結局は意欲の問題なんだなと理解した

長男が野球を始めて2年くらいたちます。
4年生で高学年になりそれなりに身体もできあがり、ピッチングも様になっていました。
もう僕には打てない感じだな。ゲラゲラゲラ

そんな息子はうまくなりたいと思うことは常々あり、以前はよく家で練習に付き合わされていました。
キャッチボールは大好きでいつもキャッチボールや守備練習をしていたのが懐かしいです。

でも、素振りなどはなかなか取り組みませんでした。
色々と取り組みやすいようにやってみましたが、結局はそれほど続かず。
今でも素振りほぼ0回の日々です。

自主トレーニングといわれる自主練は普段の生活からちょっとはみ出た世界
やってもやらなくても問題ないし、今の自分で満足できるならそれほど必要性も感じないかもしれません。
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つまり自主練をするとなるとそれは非日常になるわけです。
日常の生活とはちょっとズレたところに存在しており、その場所に対して踏み込むかどうかは本人次第。

そう考えると、非日常に対して踏み込むということは、
子供自身の意欲が関わっているのだろうとおもうのです
この意欲が減退していたり日常から一歩外れたところに踏み込む勇気がないと自主練という非日常に存在する場所にはいくことができない。

だから、小手先でアレコレと言ったり仕組みを作ったところで、行動しようとする動機づけを外側からしているだけで本人の内側から意欲を湧き出させているものではないということを理解しました。


自主練は必須ではない。
ただ子供がそういった行動に踏み込むかどうかを見極めるだけでも、現時点で意欲が出ているかどうかの見極めになるのだろうと感じました。
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もし意欲的なものが感じられる行動がでていないなら、子供に対する接し方を見直す必要性があると感じます。

子供の注意ばかりしていないか
子供を見ずに自分のことばかりしていないか
子供に関心を示せているか
子供に助言ばかりしているのではないか
(助言するということは100点ではないというメッセージとして。時と場合があると思います)

こういったことを考えると僕の言動は注意ばかりしていることがわかりました。
できて当たり前と思い、子供自身の個性を無視して自分の物差しで判断していたんだと感じます。




2016年7月20日水曜日

3歳クラスのお友達

先日、帰宅すると次男がお友達が来て賑わっていた


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お友達遊ぶ姿を家でみることができるってのが、この上ない幸せを感じます。
保育園でのお友達とのかかわりをどうやっているのかは、保育士からの話やイベントで園に直接行って目にするしかないためにこういった機会はとてもうれしいです。

長女の時は長男のお友達の兄弟が同じ年が多く自然と長男のお友達が来ると長女のお友達も来て大賑わいになってましたが、次男はなかなかそういったところがなかった。
そのため今回のご飯を食べて一緒にお風呂に入って大はしゃぎというのは次男も見ている僕もとてもうれしいものです。

小さいころからできるだけたくさんのお友達と関わり続けて卒園してくとその後の関係にもつながっていき楽しみがまた増えていきます。

こういった日をこれからも楽しみにしていきたいですね。





2016年7月1日金曜日

子供の行動の結果

以前にも書きましたが改めて自分に言い聞かせる意味で。


子供たちが行動しその結果が様々な展開になります
こちらが期待した結果だったり、期待していない結果だったり
やってほしくない結果だったり、やらないでといったけどやってしまったり。

そんな結果を避けるために僕たち親は色々とアドバイスをしたり指摘しています。

例えば
片づけていないものを片づけてとか
片づける素振りが見えなかったら早めに支持するとか
気づくようなことを言ったり表したりして

ここで言いたいのは子供の結果をどうにか好転させようとする親の心意気があるってこと。

でもそもそもこれが間違っているような気がします。

結果は結果として本当は受け入れなければいけない。

片づけなかった。
宿題やらなかった。
おもちゃの取り合いからけんかになった。などなど
New photo added to "Camera Roll"

この結果を好転させるのは以前にも書きましたが、テストの採点が終わり答案が手元に戻ったにもかかわらず答えを書き直して、採点の見直しをしてもらう。
70点だったものを100点にしてもらおうとか99点だったテストをミスを訂正し100点と書き直してもらう行為と同じこと

一度終わった結果に対して最初にやらなければいけないのは、それが事実という受け入れであり、それがやってきた結果ということ。

これはそのまま育児にも当てはまり、片づけなかったことを片づけさせるのではなく、翌週以降でも自ら子供が片づけれるような対応を子供にしなければいけないということ。
その場で片付いていないことを指摘して片づけさせたからと言って次回から片付くものではない。

なぜなら
できていないこと(片づけ)を指摘して、子供に対してあなたのできないところは片づけだ!とメッセージを渡しているのと同じことになる。
つまり子供に『あなたは片づけできない子だから片づけなさい!』という矛盾を生む。ドラえもんにチョキ出せって言ってるようなもんだ。できないことをやれってといってる。

だから、片づけを指摘するのではなく、片付いていなくても次回以降もしくは片付いていないのをそのままにして、翌月からでも子供が自ら片づけるような接し方をしなければいけない。
この辺がアドラーで言うところの勇気づけであり、カモメ保育園で言うところの自立に向けた意欲と似ていると感じる。

New photo added to "Camera Roll"

片づけで例えたが、水遊びが嫌いだったり、虫が嫌いだったり準備が遅かったりも同じと思う。

その場をうまく乗り切らせるために親としてあの手この手で対応を考えてしまうが、その場で行うのはあくまでも付け焼刃でしかない。

その時は苦手でも次回から楽しめるような対応を子供たちにしていき次に水遊びしたとき、虫取りしたときの反応をみて自分たちの育児の結果をその都度受け入れていく必要があるのだと感じた。




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