子供たちが行動しその結果が様々な展開になります。
こちらが期待した結果だったり、期待していない結果だったり
やってほしくない結果だったり、やらないでといったけどやってしまったり。
そんな結果を避けるために僕たち親は色々とアドバイスをしたり指摘しています。
例えば
片づけていないものを片づけてとか
片づける素振りが見えなかったら早めに支持するとか
気づくようなことを言ったり表したりして
ここで言いたいのは子供の結果をどうにか好転させようとする親の心意気があるってこと。
でもそもそもこれが間違っているような気がします。
結果は結果として本当は受け入れなければいけない。
片づけなかった。
宿題やらなかった。
おもちゃの取り合いからけんかになった。などなど

この結果を好転させるのは以前にも書きましたが、テストの採点が終わり答案が手元に戻ったにもかかわらず答えを書き直して、採点の見直しをしてもらう。
70点だったものを100点にしてもらおうとか99点だったテストをミスを訂正し100点と書き直してもらう行為と同じこと
一度終わった結果に対して最初にやらなければいけないのは、それが事実という受け入れであり、それがやってきた結果ということ。
これはそのまま育児にも当てはまり、片づけなかったことを片づけさせるのではなく、翌週以降でも自ら子供が片づけれるような対応を子供にしなければいけないということ。
その場で片付いていないことを指摘して片づけさせたからと言って次回から片付くものではない。
なぜなら、
できていないこと(片づけ)を指摘して、子供に対してあなたのできないところは片づけだ!とメッセージを渡しているのと同じことになる。
つまり子供に『あなたは片づけできない子だから片づけなさい!』という矛盾を生む。ドラえもんにチョキ出せって言ってるようなもんだ。できないことをやれってといってる。
だから、片づけを指摘するのではなく、片付いていなくても次回以降もしくは片付いていないのをそのままにして、翌月からでも子供が自ら片づけるような接し方をしなければいけない。
この辺がアドラーで言うところの勇気づけであり、カモメ保育園で言うところの自立に向けた意欲と似ていると感じる。

片づけで例えたが、水遊びが嫌いだったり、虫が嫌いだったり準備が遅かったりも同じと思う。
その場をうまく乗り切らせるために親としてあの手この手で対応を考えてしまうが、その場で行うのはあくまでも付け焼刃でしかない。
その時は苦手でも次回から楽しめるような対応を子供たちにしていき次に水遊びしたとき、虫取りしたときの反応をみて自分たちの育児の結果をその都度受け入れていく必要があるのだと感じた。
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