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2018年8月31日金曜日

海外ドラマから見るイジメ問題

いじめの問題

何時の時代も存在しなくならない問題。

そんなイジメの話を海外ドラマをみて気が付いたことがある。

子供とのかかわりの中で、問題が起きると大概はその問題に対しての行動が多い。
子供が意地悪されたら、親が出ていくことを前提に話がすすみ、
後はママに任せなさい的なことがある。

そして意地悪に対しては
意地悪をさせないように加害者の親や先生などに話す。

当然の行為なのだが、いじわるに対しての解決にはなっていないし、
被害者に対してもいじわるに対しての解決には実はないってない。

意地悪されないなら解決だ!
なんて言われるが違う。

親が子供の前に出て解決したことで、
子供には
「あなたは無力よ
とメッセージを送ってるだけだ。

解決を考えるならそうじゃない。
子供を前面に出たうえで支援する方向にしないといけない。

先生や相手の親に対して親が話すのではなく、
まずは子供が行動を起こし、
そこに進展がなければ、初めて親が出てくるところだ。
親はあくまでもサポートだ

子供の行動として自分で解決に向かう行動を促すべきと思う。

それは小さな子供でも同じだ。

小さいからこそやるべきである。






ドラマでは
黒人の子供が同級生にうんちと言われたことを母親に言う。
母親はそんなことはないと伝え、言った子供の母親に話し合いに行く

相手の母親はそんなことは言ってないと思うと話をはぐらかし話し合いを終える。

うんちといわれて当然そんなことはない!子供には伝えるのだが、親が子供が言われたことを否定しても結局のところ同級生は言い続け、それはほかの子にも波及する。
一人の親が否定しても10人の同級生が言えば、否定している効果が薄くなってくる。

言った子を罰する

バレないように言うだけであり解決には至らない。


言われたことを否定しても意味は薄いかも。

それなら言われたことに焦点をあわせるより、子供本人に焦点を合わせて何を言われようがあなたは素敵なんだということを伝えていくべきなのではないだろうか

言われたことを否定しても、思っている奴は言ってくるし、何度否定しても言われる数のほうが多くなり結局焼け石に水になる。

それなら変わることのない子供本人のすばらしさを本人にじっくりと理解してもらい自信をもって生きてもらうことのほうが解決の道につながるのではないだろうか

「あなたは世界に一つの唯一の存在であり、我々の宝物。何をどう言われようがそこは変わることのないことなんだよ」と伝えたい。

つまり「うんち」と言われても気にもならないくらい自信が持てたら素晴らしいなと思う。

人種差別の問題は簡単じゃないんだろうけどね


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2018年8月22日水曜日

自由とルール


子育てっ考えることばかりですね

子供を育てるときに否定をせずってことは色々な育児関連の本に載ってます。

その否定を意識するとダメと言えない

注意できないという迷路に僕は迷ったことがあった。

ダメがダメではないってことにたどり着くまでにとても時間がかかりました。




ダメと言われたからと言ってその子を否定しているわけではないんです。
そして、ダメと言われた子も否定されたとは思わないんです。


そんなことはない!!って言われるかもしれませんが、ぼくは実感してます。
ダメがダメではないってことを。




否定はもちろん良い印象を与えないと思いますが、

否定すべきところはあくまでも行為

そして、否定しないところは人格です。

この行為と人格を一緒にして叱ってしまうと自己肯定感が下がっていきます。

例えば、片付けが出来なかった子に
「何でいつもおまえは片付けができないんだ!」
このお前という一個人を特定する言い方は人格に訴えている部分かもしれません。



それなら「片付けてないから、片付けて」という行為だけの指摘にすることのほうが良いように思えます。

ここでそんな言い方しても子供は片付けない!と言われます。



でも僕は子育ては結果を求めるものではなく、過程を楽しむことが基本と考えているので、今すぐ、少し先でも結果がでなくても正しいことを言い続けることの大事さが伝わればと思います。




子供が習っている野球体験会でルールの知らない子供たちが体験しにやってきます。
その時に、打ってヒットになることは難しいので、好きにしていいよ、自由に動いていいよ、好きなようにやっていいからね。などと声を掛けますが、

この曖昧な自由さが逆に子供たちは
身動きできなくなるんです
何をしていいのかわからない所に何をしてもいいよと言われても何もできない。



ところが、バットに当たったら一塁に走るんだよ、
バットは投げずにおいて走ってねという簡単なルールを伝えると
子供たちは目一杯バットを振って楽しみだすのです。



ここでさらに腰を回してとか、
膝を曲げてごらんとか
色々と細かくアドバイスすると逆にまた動けなくなります。


この自由とルールの範囲をどう子供が受け取るかってところがポイントのようです。
ルールが全くないと動けない、ルールが多すぎると動けない。



子供たちが自由に動ける範囲
自分の判断で意識できることが重要であるようです。



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2018年8月14日火曜日

認識の違いにから人によって回答が違う。質問の仕方

質問の仕方

子どもの関係で様々な人と話すことがある。
その中で考えの近い人や新しいものの見方を気づかせてくれる人など様々。

自分の疑問を聞いたときに色々と気づかせてくれたり、質問に対しての答えを聞いていると人によっていろいろな考えがあることに気づく。

でも、あることに気づいた。

質問していることと聞きたいことが違うことも多々あるってこと。
考え方の違いだから仕方がないと思うかもしれないが、
そうではなく聞きたいことと、的がちょっとズレてる回答をもらうことがある!ってこと。

このズレについて色々と考えた。




人によって物の見方が違う
ということは同じものを見ていても、こちらが見ているものと回答者が見ているものが違うことがあるってこと。つまりお互い違うものをテーマにして話している可能性があるってことだ。

例えば)
魚の質問をした時に、質問者は海の魚のことが知りたいが、回答者は川の魚の話をしている感じ。

魚といえば海だろ!とか思う人もいるが認識は人それぞれ違う。

この場合、海と川というハッキリと線引きできるから聞くときには海の魚といえばいいが、
実際の場面では線引きが出来ないものも多いから、
聞き方を変えないと回答者の答えは変わらない。

海の魚を「海」という単語を使えない場合を想定すると、

サメに食べられることもあるとか
塩水じゃないと生きれないとか
漁船でつり上げらえるなど
海を連想するような単語を織り交ぜて質問していくことが望ましい。

こういう具合に子供関連の話し合いになると職場とは違うお互いの認識のズレをよく感じる。
ただお互い良くしようとか、より良い方向にという思いは同じなので、自分の考えを曲げない。そのため話は平行線のままというのを感じる。

この認識している部分をお互いに理解できれば、もっとお互いの理解度が深まるような気もする。





2018年8月13日月曜日

液肥を作る

僕以外の家族は果物が大好き、
そこで食卓には常に果物が出てきます。
そんな果物からは必ず種がでてくる。

この種をいつも捨てていましたが、試しに発芽させてみようと思いチャレンジしていましたが、発芽してくれました
ヒャッホー('ω')ノ
うれしい限りです
そして畑には生ごみを埋めていたら、かぼちゃが発芽しました。
種からの発芽ですね、生命力の強さを感じます。





発芽までは意外にすんなりとできたのですが、発芽してからの成長が遅く感じ、
生ゴミ堆肥を家の中で作っているので、その堆肥を鉢に入れてみたら、さらなる成長がありました。
やはり植木鉢内だけでは栄養が足りなくなるんですね。

ただ堆肥を足すと土が増えるので、植木鉢では限界があります。
そこで液肥に目を付けました。

今回はとりあえず、作った堆肥に水を加えると下から液が出てきます。
この駅が液肥にならないかなぁ~と考え、植木鉢に入れてみました。
取り合えず水で薄めてあげてます。

ここからどう成長するのか楽しみです




2018年8月9日木曜日

共感って大事だね

子供たちは日々様々な体験をし、それをつたない話し言葉で伝えてきます。
忙しくしている時など、適当に返事をしてしまいますが、子供たちにとってはそんな会話も大事なので、やはり今後はしっかりと受け答えしていきたいなと思ったりします。

いつも子供たちは色々とお話をしてくれたり、たくさんのチャレンジをします。
もちろん、そのチャレンジやお話には親として聞いていると(○○したほうがいいのに、○○しないと失敗するよぉ)なんて思うことが多々ありますね。





でも子供たちが求めているのは、
うれしかった気持ちなどの共感でありアドバイスなどは求めていないようです。

この共感をするというのがとても大事に思います。

笑っている子
喜んでいる子
泣いている子
怒っている子

喜怒哀楽が豊かな子供たちは何時も様々な顔を見せてくれて大人たちを楽しませます。

大人たちも共感をしようと子供たちの行動に反応をしますが、
注意したいのが、目的は共感をすることであり、



同情ではない!!ってこと




泣いている子や○○が出来ない子などに「可哀そうだね」的な対応をしてしまうと
それは共感ではなく同情になります。

同情が悪いわけではない
思いやりとか共感の意味もありますが、
受け取る子供として、どう感じるかが問題です。


子どもは自分たちが力なき存在とはそれほど思ってなく、
自信過剰なくらい何でもできると思ってる子が多いようです。

そんな子供たちに上から目線になってしまう可哀そうという対応では、受け取る側としては自分は小さな存在なんだ、自分は守ってもらわないといけないんだという感覚に結び付きやすいからです。

大人が守ってあげるのは当然
守ってもらわない何もできないではなく、万が一の時には後ろに大人がいるから挑戦できるという感覚が大事であって、自分を過小評価する考えに結び付けてはいけないと感じます。


僕もつい共感のつもりが同情してしまうことが多々あり、その都度「またやっちまった」と思いますが、大人同士では同情の場面も多いのですが、子供には失敗や悲しいことがあったとしてもそれを乗り越える成功に導ける可能性が残っていることを感じてもらえるような対応としたいですね




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