4年生で高学年になりそれなりに身体もできあがり、ピッチングも様になっていました。
もう僕には打てない感じだな。ゲラゲラゲラ
そんな息子はうまくなりたいと思うことは常々あり、以前はよく家で練習に付き合わされていました。
キャッチボールは大好きでいつもキャッチボールや守備練習をしていたのが懐かしいです。
でも、素振りなどはなかなか取り組みませんでした。
色々と取り組みやすいようにやってみましたが、結局はそれほど続かず。
今でも素振りほぼ0回の日々です。
自主トレーニングといわれる自主練は普段の生活からちょっとはみ出た世界。
やってもやらなくても問題ないし、今の自分で満足できるならそれほど必要性も感じないかもしれません。

つまり自主練をするとなるとそれは非日常になるわけです。
日常の生活とはちょっとズレたところに存在しており、その場所に対して踏み込むかどうかは本人次第。
そう考えると、非日常に対して踏み込むということは、
子供自身の意欲が関わっているのだろうとおもうのです。
この意欲が減退していたり日常から一歩外れたところに踏み込む勇気がないと自主練という非日常に存在する場所にはいくことができない。
だから、小手先でアレコレと言ったり仕組みを作ったところで、行動しようとする動機づけを外側からしているだけで本人の内側から意欲を湧き出させているものではないということを理解しました。
自主練は必須ではない。
ただ子供がそういった行動に踏み込むかどうかを見極めるだけでも、現時点で意欲が出ているかどうかの見極めになるのだろうと感じました。

もし意欲的なものが感じられる行動がでていないなら、子供に対する接し方を見直す必要性があると感じます。
子供の注意ばかりしていないか
子供を見ずに自分のことばかりしていないか
子供に関心を示せているか
子供に助言ばかりしているのではないか
(助言するということは100点ではないというメッセージとして。時と場合があると思います)
こういったことを考えると僕の言動は注意ばかりしていることがわかりました。
できて当たり前と思い、子供自身の個性を無視して自分の物差しで判断していたんだと感じます。